腐敗マスコミに盲従すれば歴史の裁きを受ける

 物事にレッテルを貼ることを嫌わないでいい。疑うことそれは普通の対処法だ。先入観は大事な一歩だ。

 我々こそがマスコミからのレッテル貼りを拒絶するべきなのだ。

 物事を決め付けてかかることを恐れないでいい。それは自分の偏見を恐れないということだ。
 そして何でもタブーにしないことが大事だ。今のマスコミのように黙って看過している多くのことが隠された真実だ。
 「レッテル貼りをするな」そんなことを言うマスコミに限ってレッテルを貼ろうとしてくる。いわく「陰謀論者」と。
 マスコミは一方的な権威を振りかざしてくる。それは既成マスコミという権力の亡者たちなのだ。
 自分たちはどうなんだ、マスコミはそれには決して答えない。今はそういう厚顔無恥がまかり通る世の中だ。
 人は思った最初のこと、その直感、まず自分の感じたことを前提に行動するべき時にきている。マスコミはもはや役に立たない。
 刷り込もうとしてくることに気づけ。それは洗脳だ。マスコミへは疑いを常に持つべきだ。


 それは他人に対しても同じことだ。
 人を誤解してしまうことを人として恐れなくていい。
 誤解されたと言い立て、文句をつけてくる奴こそが異常で疑わしいものだ。尻込みすることはない。
  
 異常に思える泣き声が通りで聞こえたら。110番するのだ。躊躇することはない。虐待かもしれないのだ。

 間違いだったらどうしよう、そんなことは言ってられない。

 偏見や先入観などあって当たり前のことだ。間違いを正す用意さえしておけば事足りる。

 検証や反論の用意すら必要ない。それがマスコミが嘘を通そうとするこの世の中で、今起きていることへの対処法なのだ。


 他人への思いやりさえ大事にしまっておけばいい。
 みせかけのヒューマニズムなど欺瞞でしかない。それは嘘か、小説のネタだ。
 私たちに必要なのは現実へ対処することだ。マスコミの誰も責任など取ってはくれない。
  
 飾り立てた言葉や空虚な言葉で現状をごまかすことが必要なことじゃない。馴れ合うことで平穏になるわけではない。今こそ真実が必要なのだ。それとも流されたまま破滅へと向かうのか。
 押し付けられ誘導されているという被害者意識で陰湿な悪感情を育てるより、堂々とおかしなものはおかしいと訴えるべきなのだ。自分のチカラで考えよ。
 議論を俎上にのせまいと抵抗し、議論を避け逃げ続け、ひたすら世の中が動いてゆく先を歪め、真実を追究することを止めさせようとする連中をこそ疑うべきなのだ。邪悪なグローバリストたち。マスコミはその狂気に加担している。
 
 虐殺の疑惑はどうした。人身売買、生物兵器開発疑惑はどうした。トランプにかけられた嫌疑はすべてがでっちあげだった。マスコミは議事堂襲撃の嘘が明らかになってもダンマリを決め込んでいる。それが遠い米国での茶番であっても。
 安倍元首相はどうして殺されねばならなかったのか。
 なぜ権力の嘘に市民が責任を取らねばならないのか?
 LBGT、BLM、ESGs、今のスローガンに飛びつく騒ぎようは意味不明だ。あることないことがまるで一方向だけを向かせようと流れ続けている。マスコミの役にも立たないスキャンダリズムはこんなスローガンに大衆を惑わせる。
 自分の場合は許されて他人のことなら証拠もない疑惑ですらでっち上げる、そんな連中がいるのだ。そしてそうした態度は伝染する。誰もが市民でさえこれを真似して利用しようとし始める。それはウィルスのように蔓延する。
 そしてマスコミは捏造の言葉を作ってきたのだ。
 「放送法を安倍が捻じ曲げた」、「ウクは自由と民主主義のために戦っている」、挙句に選挙になれば「支持率急落」「納得していない国民大多数」などと。あらゆるマスコミの嘘が公然とまかり通る。


 そのくせ官僚には迎合、増税路線まっしぐらでも彼らは沈黙する。ワクもウクも右へ倣えの大本営迎合ばかり。
 かつてペンは剣よりも強し、などと言った。
 それは言葉をきれいに揃わせて建前上手にするのが趣旨ではない。真実を追究するから強かったのだ。
 都合のいいように言葉を選ぶから言葉が強いのではない。堕落したマスコミを疑え。彼らの気取ったみかけのよい理屈にこそ嘘がある。その単純化された理屈は作られた嘘だ。フェイク・ニュースなのだ。
 もはやマスコミの嘘に目を瞑ることはできない。破滅へと人類を後押ししようとする邪悪なものたちと誰もが闘うべきだ。このネット空間が我々にはある。マスコミはネットの言論を唾棄する。それは彼らの従う権力にとっては都合が悪いからだ。


 マスコミという権力が真実を潰そうとするのは丸裸にされることを恐れているからだ。
 連中は自らの権威を手放そうとはしない。その権威のためならどんな邪悪な連中にも迎合する。
 
 汚いドロだらけの恰好をした奴を見て、一歩引くことが悪か? 当然のことだ。
 他人に警戒の目をむけることが悪か? 当たり前だ。
 自分は安全地帯にいながら疑いを持つ人々にマスコミは「陰謀論者」とレッテルを貼って攻撃する。人種差別などと言い地球環境といい、ありもしないことお綺麗なことを云って従わせようとするお前は何者なのだ。
 グローバリストの主張する世界共通の価値など、どこにもない。どこにも実は存在しない。
 それは人類を誤った方向へと動かそうとする邪悪な権力が作り出した妄想なのだ。彼らの頭にしかないことだ。それが彼らの教条主義につながる。彼らは神を気取っている。
 
 世界に暮らす日本人は、極東の僻地の東洋人として常に疑いと好奇の目を向けられることをよく自覚してきた。
 我々はたいていは群れず、品性よく保ち、偏見を持たれることさえウェルカムだった。
 教養あらねばならないと自制し、公正であろうと努めてきた人々。それは世界の人々がサムライの意味を聞き、日本の文化を知りたいと尋ねるからだ。
 海外で暮らす人々は日の丸を背負って行動し暮らしてきたのだ。
 日本人として恥ずかしくないように、と。それを今、独立国の市民として思い出すべきなのだ。
 そんな気持ちがあることを理解できない連中がいる。そのマスコミの記者どもはどの無法国家から来た闖入者なのか?誰の付託を受けて極右とレッテルを貼り、陰謀論者と非難し、決め付けているのか。
 
 もはや様々な勢力が自分の都合のいいように世の中を動かそうとするようになった。
 言葉を狩り、人にレッテルを貼って真実を隠そうとやっきになっている。
 彼らには異常で薄っぺらな理屈しかなく先が見えない。その理屈がおかしいのは手前味噌、自分への利益誘導しか考えていないからだ。彼らは世界の支配者気取りであり、マスコミはその虚構を後押しする。それが利益になるからだ。
 マスコミの虚構に任せれば正義はなきものになる。都合の悪いことは隠されるようになる。権力が彼らの従順な迎合を喜んでいる。今のマスコミはかつての愚鈍な大衆のヒステリーと同じ錯乱に陥っているのだ。
 そうして、それを「お互い様さ」と老人が云う。
 嘆かわしいことだ。老齢を重ねてもまだ自己正当化をしているのだ。かつてポケットにクスねた金が恥ずかしというのなら、恥じ入ってその無様な余生を生きよ。今を支える若者たちにまず膝を屈せよ。
 透明性の高い社会になってゆくことは一部の連中にとっては困ることだ。思い当たるフシのある連中はこうした風潮を嫌う。これまで不透明さの中でコソコソと生きてきた者たち。なにもかもが透明になってしまえば彼らこそ一番に困る連中だろう。
 彼らは抵抗し露骨に真実を潰そうとするこの風潮に乗ろうとする。もはや西側の世界中のメディアのほとんどがそうなってしまった。それは真実への挑戦に他ならない。
 言論が歪められ、市民が知ることが隠されてしまうのであれば民主主義は成立しない。誘導され操作されるだけの大衆は民主主義の前提ではない。今や民主主義は風前の灯であり、裏にいる連中がいいように世界を操ろうとしている。
 そのためにはまず言葉から潰そうとするのだ。その尖兵にいるのがマスコミだ。
 SNS、ネット、掲示板、彼らはあちこちに目を光らせながら牽制をしている。統制をしようとしている。有権者ではない我が国でトランプを我が国のマスコミは否定し続けた。そうすればはるか海の向こうから褒美がもらえるとばかりに彼らは乗ったのだ。
 そのくせ目の前の小さな命すら知らん顔でいる。ダンマリを決め込む。彼らは権威のために振りかざす。
 今は剣どころか言葉は武器、言論は兵器なのだ。
  
 マスコミの嘘を許していれば止められるはずだったことが止められず、死なずに死んだ命が死ぬ。
 その責任を取れ。
 
 我々は当事者だ。その責任がある。歴史の裁きは遠慮などしてはくれない。

 

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