命題「幸せの9割はお金で買えませんか?」

 まずそいつは前置きに「綺麗事抜きでね」と言ってくる。
 お、おう。なるほどこちらの実直さが試されるのか。
 そういう、「お金で幸せの9割は買えませんか?」という投げかけについての話。
 
 


 結論から言えば、「シアワセ」ってのは、割ったりかけたり足したり引いたり、算術的なことはできないものなんだと思うのよ。
 だから、「9割とか7割のシアワセ」ってのはありえない。
 ひとつでもフシアワセがあったら全部が台無しになる。人間てそのぐらいワガママじゃないかな。


 
 9割の満足があったとしても、たとえ1割でも失っているものがあるなら気持ちは大きい部分を占めてしまう。つまり「9割の満足がある」なんて算術は結局はちっぽけなものに過ぎなくなってしまうんじゃないかな。
 つまり算数にはならないんだよね。
 可愛い嫁がいる、家がある、カネもある。なつく犬もいる。ただ子供が難病だ。そしたらすべてが吹き飛んでもおかしくはない。シアワセってなんだろうって話。
 カネで買えると言うなら算術ができるでしょうに、それができないのがほとんどだ。
 まあ何割なんて設定自体、勝手な妄想に過ぎない。子供の健康が9割りで他が1割りだ。そんな言い分だって認める。でもカネじゃ買えないけどね。(笑)
 
 それこそ何が幸福か、何がカネで買えるのかわかんなくなる。
 「節(辻褄)を合わせる」ことができなくなってしまう。


 だからフシアワセ。なーんて(笑)
 
 「綺麗ごと抜きで言って、お金で幸せの9割は買えませんか?」って、「綺麗ごと抜き」と言う割には実直ではない投げかけにさえ思えてくる。


 実直さを装っていながら、実はありえない妥協のモデルを押し付けてないか。
 だってカネは算術だから。そうなる。
 
 人間のエゴとか業の深さを軽く見すぎていると思う。
 「打算」とか一種の「いい加減さ」で「シアワセ」を短絡的に捉えようとしているように見えて、実はもっとドロドロしたものを忘れてはいないか。
 
 あーすまん。君はこう言いたかっただけだろ。
 「俺はカネ以外のものを信じない。人の心もカネで買えるんだ。」と。
 
 
 その「カネ」つうものはなんかを買ったら確実に減る。
 普通の感覚ならカネは減らさないようにするもんだ。「資本」つう言葉があるだけに。(笑)
 例えば、「1割でも満足できる部分があるってならそれでいい。俺はそれ以外の部分に費やす金を払わず、減らさずに増やし続けたい」といったら?
 確かにカネのために生きる奴もいるな。墓場まで持っていこうとする。(笑)
 軽蔑されようが、笑われようが、頼るよすががそれしかないなら、哀れだがしょうがないじゃないか。
 
 この命題ってのは、トリックに過ぎないよね。
 
 
 

 

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