トリアージのヒューマニズム

 
 耳慣れない言葉かも知れないが、医療の現場では昔からひっそりと議論されていることだ。
 このコロナ感染拡大に伴う医療現場のリソース不足、いわゆる医療危機についても関連し、このことは現場でよく議論されている。
 それが「トリアージ」という考え方だ。
 とても重く、考えるべきテーマだ。
 医療処置に優先順位をつけ、治るものを先に処置し、手遅れなものには労力を裂かない。


 後回しにせざるを得ないことを認める。それを判定する。 そういうことを云う。
 
 もし、医療が治療を目的とするだけで、人道主義の完遂を目的としないとしたらどうか。許されるのだろうか。
 とんでもない。医療が治療でなくてどうする? そう考える人もいるだろう。


 人間を尊重しようとするのはまた別の話だ。
 「人道主義」などという言葉は後から付け加えられるものだ。
 医療が治療を目的とするのは当たり前のことじゃないか、と。
 人道主義なんてプロパガンダと医療は関係がない、と。
 善良な医師ならそう言うかもしれない。よきサマリア人、緊急の処置に失敗しても訴えられないと考える医師だ。
 しかし、我々社会の構成員からすれば、こうした考え方を受け容れるのは辛くて矛盾しがちだ。
 それでも、あらかじめ決めておくべきこと、覚悟しておかねばならない大事なことだ。命を救うのに優先順位をつけねばならないことがある、と。
 
 まだ息をしている人間に対する処置を停止することには道義的議論が付きまとう。
 安楽死どころか、延命治療の放棄についてすらまだ議論は尽きない。


 治療を続けても見込みがないと判断した患者の治療を後回しにすること、難しい治療になることが予想されるなら、すぐにでも救える他の命を優先しようとする考え方は冷酷だ。だが現場では必要な場合がある。
 医療という限られた資源を、「最後まで諦めず投げ出さずに対応する」という姿勢、ひたむきさに割いてもいいだろうか。
 それは人道主義だろうか。
 しかし「諦めるな」とは、自分に対して誓う言葉だ。


 人をケアしている医療の現場に言うべき言葉ではない。目的は違うのだ。
 医師が災害や事故という特別な現場で多くの命を救わねばならないとしたらどうか。
 こういう判断には苦痛が伴う。それは正常で健全な感覚だと思う。だからこそ我々は考えるべきだ。
 吾とわが身のこととして考えられるなら素晴らしい機会だ。
 こういう議論を社会的にタブーとしないで、我々は受け止めるべきかも知れない。
 
 この想定が現実的に感じられるのなら、それを奇貨としてポジショントークをしないことだ。なすべきことはなにか、想定し議論する姿勢が必要だ。
 大勢の人間を助けるため緊急的な場合には、並んだ順番や愁訴の大きな順など、感情的なことに流されることは危険だ。
 でないとそのためにもっと多くの命を危険に晒すことになる。
 
 何も「見捨てる」わけではない。そういう曲解に対してはよく臓器移植で言われる理屈で反駁することができる。
 
すなわち、「他の命もあなたの命も同じ命だ。あなたが他の命を救うことになるなら意義はある。」と。

 

 トリアージは優先順位を医療技術の面からつけねばならない手順だ。

 それが必要になる時は必ずある。
 平時には「それはそうだろう」と、誰もが同意することだろうが、自分ならどうか自分の家族だったらどうか。当事者になれば受け容れるのは難しい。
 結局、人道主義、ヒューマニズムの要請に忠実なら、この冷酷と言われる判断に従えるはずだ。
 自分だけは助けろ、順番は先だ、論理を度外視した要求はヒューマニズムなどではない エゴだ。
 そして、優先順位をつけられ劣位の重症患者が死ぬことについて、エセヒューマニズムを標榜する連中は非難するだろう。 この時代、この今に、戦争反対や憲法九条などと言っている連中のように。
 
 人は客観的で全体の利益となる判断をどれだけ冷静に受け入れることができるだろうか。我々が社会的動物であることが試される。
 それこそがヒューマニズムなのだ。
 
 
 これから嫁は手術する。2時間半だそうだ。
 ついそんなことを考えた。

 

 

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