法科か経済学部か

 

 なーんて、彷徨える青春、若い連中がそんな悩みをクチにする。

 文学部に行きたいとか、そういう人たちってのは「やりたいこと」とか「好きなことがある」人たち。
 そこいくと法科か経済かなんて考えちゃうのは、どこかゆとりっぽい。
 要するにまだ自分の先の人生がよくわかってない連中がそんなことを考える。
 
 結局、偏差値でどこがいいかなんてことになっちゃうにしても、どっちを選んだらいいかなんて実に子供じみた疑問だ。
 
 今の日本では、大学卒業すらできてないんじゃどうしようもない。ともかく選ぶ学部なんてどうでもいい、ってのが現実。
 四年間を遊んで、そしてフレッシュマンになる。
 大学なんて出るだけしか意味がない。
 それほど日本の教育は歪んではいる。
 
 
・・・
 でも、この命題に限るというのであれば有意義なことかも知れない。


 教養としてどっちを身につけたほうがいいのか、それを考えるのはちょっとしたヒントになる。
 
 つまり、法学と経済学、どっちが今後の人生に役立つものかという命題だとすればいい。
 
 もちろん法学だろう。
 この国は法治国家だ。
 そのことを理解できているのがどれだけいることか。
 法律はサッカーや野球のルールじゃない。
 要するに法治主義と言うこと。
 それを分からないと大人でも結構苦労する。
 
 法科ってのは何も弁護士だの司法書士になりたい連中の予備校ってわけではない。
 そういうサービスはあくまで余計な部分だ。


 今はロースクールで弁護士資格のハードルは低くなっているし、そっちがある。弁護士なんてもはや食いつぶしのきかない職業。
 でも、四年生大学のちょっとした経験ってことで言うなら、法科の見識ってのは少しは役に立つと思う。
 
 どんな風に役に立つか?
 世の中には脱法的なこと、合法か違法の議論、色んな瀬戸際があったり、憲法論争もある。そういう日常に我々は生きている。
 法治主義ってとこからモノゴトを考えられるようになるというのは、法科の見識、その恩恵だと思うのだ。
 もちろん、そういうものがなくても考えられる人はいるんだけれども。
 我々がその秩序を作る。投票し、議員を働かせることでその秩序の形成に参加している。
 政治ごっこやゲームだなんていつまでも子供じみたことを考えるべきではないのだ。
 そういう考えることを訓練してくれるか、その質がその大学にあるかどうかはともかく、天から秩序が降ってくるものではないというのだけはわかるだろう。
 
 
 対して経済なんてのは、競馬の予想屋みたいなもの。
 まさに価格形成、天から秩序が降ってくるのだ。
 しかも経済学はちょっとカジるとわかったような気になってしまうだけにタチが悪い。
 宮沢なんか実にミジメなものだった。与謝野というのもいた。黒田にしても結局はみんな勘違いの思い込み。
 もちろんそれだってその最中にやっていることの結果は分からない。
 
 経済学の法則はでっち上げ、経験則は常に裏切られ、期待が積み重なると歪む。
 設定したカーブは常に楕円を描いていてしまい、どんなに色んな要素を叩き込んでも結局はあてずっぽ。
 カネにもならないし、教養としてもどうか。
 せいぜい人に納得しやすい説得ができたりプレゼンテーションが出来るようになる程度。
 
 経済学的な論争をすると、たいていこういう言い方をするのがいる。
 「それは違う」と。
 生き物である経済、アメーバのように得体の知らない人の経済活動を議論していてそれほど断言できるか、実に不可解。
 
 対して、法律的な話での議論はこういう言い方になる。
 「それはどうなんだろう・・・」と。
 人間が作ったもの、社会が作ってきたものに対してはこれだ。断定をしない。


 我々が立っているものだから、自然にそのような言い方をするのだろうか。
 謙虚さがあるではないか。
 
 
 もちろん、ごく単純な二元論、それで遊ぶ。そういう意味でしかないが、法学に一分の理あり。
 
 
・・・
 法律的見識がどんな風に役に立つか?
 
1.スーパーで無料の氷を貰っていた客が逮捕された。


2.ザイニチ朝鮮人学校への補助金の給付が争われた。
 東と西で同じように地裁に提訴された。支給は不正である、と。
 どちらもほとんど同じことを争っていながら、関西と関東では判決が正反対になった。
 どちらも実は間違ってはいない。
 法律的見識がないと「地裁は狂っている」だの「裁判官にはザイニチが入り込んでいる」という話になる。まあ危機意識としては悪くないが、ただ事実としてはどちらも間違ってはいないのだ。
 
3.タツーを彫るのは医療行為だとして取り締まってきた。見つかれば注意、罰金の地下ビジネスだった。やるのは阿呆とはみ出し者ばかりなんだからいいだろう、と。
 しかし抵抗する奴が争った。
 医療行為の規定を援用して規制しようとするのは違法ということになった。無罪。
 ハンパ者文化のタツー彫師を医療行為の介助者とされても困る。感染症だの暴力団だの、心配があって取り締まりたいならとっとと法律を制定し規制しろ。国会は法を拡大解釈するな、と。
 まさにこれも正論。ぜんぜん間違ってはいない。
 
 
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 一審、地裁は主に証拠によって争われる。
1. やりすぎれば逮捕される。法の運用はそうできている。
2. そうすると「学校法人として届出をして認定されたところへ補助金を支給せよ」ということで争えば、たとえ北朝鮮のカルト学校であっても合法となる。
 逆に、「その学校法人の届けと認可をもって学校法人であることは成立しない。ペット学校もあるし美容学校もある。補助金支給は学校法人として成立しているかどうか、その内容によって決めるべきだ」ということで争えば韓国系学校でも違法となるだろう。連中の教科書は狂っていて反日、論理性がなく歴史を捏造するものだから。
 
 
3. 高裁は精神的と言ったら語弊があるが、もう少し解釈とか考え方を争う。
 今回、それが法規定の目的外運用の是非が断ぜられ、タツー師を裏家業にしておくわけにはゆかなくなった。
 制度を作ることが国会に求められた。
 子供がタツー入れてしまい、憤慨しただ? そんなら国会が法律を作れ、と。
 そうすると、医療行為でないのなら麻酔剤は使えるのか? 逆に規制されないところがどんどん自由を拡大してゆけば社会的リスクが高まる。
 医療行為でなきゃ取り締まれないさと、利用してしまうのが出てくる。そういう解釈をされることもある。
 
 このことは憲法論争になりそうだ。
 職業選択の自由とか言っているからそうなるだろう。
 
 
 こうして地裁から高裁へ上がっていって、法的な認定は収斂してゆく。
 憲法にからむこととなれば最高裁の判断ということにる。
・・・
 小学生レベルの問題だが、日本に高等裁判所がいくつあるか?
 地方裁判所はどこにあるか?
 県庁所在地。うん。 でも例外もある。
 最高裁判所はいくつあるか?
 
 なんでこんなことをガキの自分に覚えさせたか、よく考えると面白い。
 クスリ屋の営業規制が憲法判断になったというのさえガキの時分に覚えさせられた。
 この法的意味を教えるような教師はいなかったから、変態教師、馬鹿ばかりだったんだから。
 しかし振り返ると教科書にも多少の深謀遠慮というものがあったのだと思う。
 
 
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 ガスの検針員の野田豚が総理をやった時は悪夢そのものだった。
 あの愚か者は当時、日本がTPPで外国と条約を結んでも、それが不利になるということがわかったら「国内法で対応すればよい」とのたまった。
 国内法を条約が優越することが分かっていなかった。それが総理をやっていたのだ。
 小学生レベルだ。いやそれ以下。
 きっと日米不平等条約の意味すら分からないに違いがない。
 
 まあ、韓国は最近、似たような同じ判決を出した。
 あの連中はそういうことがわからない。なまじ途上国だと思ってないもんだから、タチが悪い。

 法治主義を取らない韓国ではすべてがムードとヒステリーで決まる。

 

 法治国家である我々は、隣国として付き合うやり方をもう変えねばならないということだ。
 
 馬鹿でも競馬はできる。
 勝ち馬に投票することは出来る。
 経済と法は違う。
 
 
 法的見識を若い時に少しでも身につけておくことは役に立つと言えるのではないか。
 その一端を示せたろうか。
 
 

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