老人介護、交換の幸福論

 

介護時代

 近年、医療の発達で人々が長生きになり、「介護時代」とも言えるような世情が当たり前のことになりました。
 年齢を重ねれば何かと暮らしに不自由するものです。
 体を動かすことさえ苦労して、最後にはひとりでは自分の暮らしの面倒が見られなくなる。 デイケア、デイサービス、特養ホーム。
 そうして老人にまつわるサービスや事業、それは今では当たり前のようにあちこちに転がっています。
 「長寿」という意味では喜ばしい話なのですが、そのことで介護の現場をことさら取り沙汰して心配する向きもいます。
 例えばまず誰が介護を引き受けるかと言う問題。
 その引き受け手をどうするかという問題。外国人を我が国に呼ぶなんて話すらあります。
 
 そして相続の手続きの問題、遺言状、信託手続き。
 
 しかし、わざわざ大袈裟に騒ぎ立ているように感じないでもありません。
 まるで暗い高齢化社会と印象操作をしているように思えないでもない。
 そうして外国人労働者の受け入れを無理矢理通そうとする政府や、各種のサービスのステマなんかが入り込んでいるのではないか。
 今は言論が歪み、意図のあるものばかりになっています。
 大衆操作が公然とされる昨今、疑いは必要です。
 
 第一、そんなに暗い側面ばかり言い立てても仕方ないだろうとアタシは思ってしまうのです。
 そんなことを問題にしようというのは、介護保険やら年金やら我が国の社会システムが破綻しつつあることの反映だからでしょうか。
 ならばそれは高齢化社会に対応できなかった失策です。
 責任をとらねばなりません、しかし誰も責任を取りたくはない、取ろうとはしない。
 それとも、若い連中に将来の暗さを見せ付けて圧迫し、言うことを聞かせようという魂胆でしょうか。
 
 いわく、もはや親の面倒を子が見ることを覚悟しなくてはならない時代なのだ、と。
 老人が老人を介護するようになるのだ、と。
 いわく、自分の人生を犠牲にして親の世話をしなければならないのだ、と。
 苦しい、大変だ。これからはみな自分をすり減らしてまで介護をすることになるのだ、と。
 国が助けるにも限界がある、少子化で子供はいない、若い者は少ない、高齢化社会は不安ばかりだ、と。
 

高齢化を受け容れる

 
 そんな負担ばかりを強調するのは間違いではないのか。
 後ろ向きなことばかり考えても始まらない。そこに何の意味があるでしょう。
 つまり世の中の景色は変わったということです。
 若者がうようよといて我が物顔に振る舞い、隠居老人たちがいる、そんな時代ではないということです。老人がうようよいてピンピンしてる。そして若者がいる。そんな時代になったということです。



 今だったら70代、80代でも隠居するような年齢ではありません。
 働けるなら働く、動けるなら動く、それでいいではないか。
 なぜ未だに退職しての悠々自適だの、のんびり暮らすだのを理想にしようとするのか。
 
 のんびりなんてしてればボケますw。確実にボケる(笑)。
 動いてなきゃ体はすぐに弱ります。足腰が弱れば心臓に負担がかかる。病がどっと降りかかってくる。
 
 だいいち時代の変化というのは常に気持ちがいいものではないか。
 それはどんな時も変わりません。
 超成熟社会ということです。「高齢化」とは我が国がそうした社会になったとことを自覚すべきなのではないか。
 そうなれば、みなが誰もがオトナということです。
 ガキの少ない世の中です。ガキの好き勝手にならない社会。



 チャラチャラと、タレントだか漫才の連中がオチャラケていることが許されるような社会ではない。
 甘ったれは許されない、そういう話になる。
 節度のないガキの態度はどこでだってもはやあり得ないはずなのです。
 岸田一族が政府を私物化し、遊び、愚弄し、おちゃらけている。そんな憲政の権威を愚弄するような親族を許した政治家は切腹モノなのです。
 そんな社会はすべてが透き通っていてすがすがしい。
 
 違うのかwww。
 

少子化問題の嘘

 
 そういう話になるわけでもなく、ただ年老いただの枯れただの、相変わらず古い老人像でいる。グチグチと愚痴を言って、それではせっかく気持ちのよい風が吹いているのに気付かないのと同じではないか。
 たとえその風に多少の加齢臭が香っていたとしてもw(笑)。
 
 「少子高齢化問題」などと、政治的な争点や課題だとしていちいち持ち出してくるのは何かの意図があるからではないのか、アタシはそう思っています。
 それで役人がこれからも先まで自分の無能さを誤魔化せることができ、政治屋は利権と議員報酬を得ることができるというわけでしょうか。
 
 「高齢化社会問題」など、ちゃんちゃらおかしいのです!
 
 最近、つとに少子化ということが言われ始めてから、やたらとキャアキャと騒ぎ立てている現状があります。
 それでは一方の両輪、高齢化というのはどうなっているのか。
 何もないではないか。何の適応も対応もしようとしてはいない。
 
 いわば少子化に問題をスリ替えようとしているのです。
 高齢化は現実です。
 しかしそれに対応しようという気構えさえない。その高齢者を「社会の負担」とさえしようとしているから、子供、若い世代の数を問題にする。
 
 そんなことで誰が子供を産みたいと思うか!
 
 この社会はいつから他人を押しのけることばかり、いつから他人を都合よく利用することばかりに夢中になるようになったのか!
 

交換、相互扶助

 
 だいたい、私たちはいつも誰かしら他人を気にしているものです。
 ごく普通の日常として他人への関心が忘れられることはありません。
 他人への無関心というのはあり得ないものなのです。
 
 学校や職場で同僚や同級生に、客が店員に、スーパーのレジでさえ前に並んでいる人を見たりします。
 それは敵意ではなく、単なる関心として他人を見ている視線です。
 電車に乗り合わせた者同士でも、偶然にすれ違った者同士でさえ、私たちはお互いのことを気にかけています。
 それは人間として自然なこと。
 それは我々にとって「負担」ということでは決してありません。
 
 どんな人だろう、何をしている人だろう、どこへ行くのだろうか、と、私たちは多くの見知らぬ人々と共に日々を生きています。
 
 だから、LGBTなどとあからさまに人のことを区分けしようとすることはおかしい。
 それは性的なプライベートな秘められた部分であり、それをわざわざ曝け出させようと執着することは明らかに異常です。
 他人を尊重などしない人間だからそんなレッテル貼りが公然とできてしまうのです。
 ナチ! ウクライナを発端としたナチズムです。
 

 
 「親の介護の子供の負担」などとは言いますが、面倒を見るのは家族でない方がむしろいいのかも知れないとアタシは思います。
 そうして他人を気にすることの方が我々日本人にはずっと慣れたことだと言えるからです。
 
 親や身内のこととなれば苦労話は多いものです。
 その世話をするのは身を削ることだと言われたりします。
 しかし、まず第一に、人々はその互いの絆ゆえにその重さに嘆息し疲弊してしまうのではないか。

 家族とは互いに暮らしを分かち合ってきたはずなのです。
 老いさばらえた身内の世話をするというのであれば楽しかった日々を思い出さずにはゆかないかも知れません。見れば必ず自分とのつながりを感じないわけにはゆかないかも知れない。
 手を借りねばならなくなったすっかり老いた姿を見れば人はため息をついてしうまものです。
 
 しかし地域や近所の人、他人というならあくまでそれはご同輩としての共感に過ぎません。
 他人の世話なら節度さえ持てるものです。
 介護するなら、むしろ身内ではなく他人様の介護を買って出て、身内の介護は誰かに任せる、その方がずっといいのではないか。
 
 そんな、「介護の交換」をしたらいいのではないかとアタシは思うのです。

 


 
 そうすれば、私たちはお互いに共同体の一員だときっと思い知ることでしょう。
 これまで接点のなかった人やその人生に触れることは私たちを豊かにさえするはずです。
 他人行儀と身内なら責められても、知らぬ相手同士なら礼儀も尽くし気も遣う。
 それはむしろ「癒し」ではないか。
 
 他人を尊重する気持ちが自然に起きるようになる。それは自分を尊重する癒しへとつながるものです。
 自分は孤独ではないと気付くようになる。そこに今のような人々が使い捨てされるような惨めさはありません。
 縁のなかった人々と縁を持てることを素直に喜べるはずなのです。




 介護職にはそんな隠れた生き生きとした面があるのではないか。
 本来なら介護などに暗い話などないのです。
 それを暗くしているのはいったい誰のどんな意図なのか。
 
 スキマ時間を交換したりしてもいい。介護と社会の接点というのはもっとあっていいのです。
 
 しかし行政がこれを阻んでいます。
 規制やら資格やら、いちいち制度をがんじがらめにしておいて介護の現場には報酬を払わせず、彼ら現場の処遇は最低です。
 
 結局、他人を気遣うという、そんなごく当たり前のことに商業主義を持ち込もうとしたから方向を誤ったのではないか。
 介護保険などその最たるものではないのか。役人のやることなど信用できない。誤りばかりではないか。


 年金制度などとっくに破綻しているのです。
 

介護に展望を

 
 聞けばほとんどの介護の現場では満ち足りたものはないようです。
 お互いにイライラとし、ムカムカとし、介護する者もされる者も、どちらもみなが不機嫌で惨めな状態だと聞きます。
 しかし介護に関わるものが奴隷同然の扱いを受けていれば当然のことです。介護される者が厄介ものとされるのは当然のことです。
 そうしたら、まるで今の状態は老人は「廃棄物」も同然ではないか。
 
 それでいいのか!
 
 そこにどんなにキレイ事を持ち込もうとしても白々しいだけなのです。
 「介護の現場の真心」などと美辞麗句や美談でやたらと飾り、役人が率先してそういう欺瞞を流布しています。
 その役人は介護を専門に扱うことでこの先も保障された将来があるわけです、いい加減な仕事でも許される天下り先がある。
 彼らは責任ある人生など送るつもりなどさらさらない。
 そんな連中がお膳立てする介護に人間らしい「気持ち」などありません。
 「真心」、そんなものが分からないヤツに限って使いたがる言葉なのです。
 
 家族以外の他人と触れ合い、ちょっと助けてやる。なにかしら他人を手伝ってやることは常に新しいことです。よくあることです。
 それは暮らしの活力にさえなります。
 

 
 介護なんてお互いに交換したらよいではないか。
 どうせテレビを見ているほどヒマなのです。
 どうせロボットでもできるような無駄な仕事に若者がかかずらっているのです。何だってできないことはないではないか。
 
 外食メニューの宅配、代行サービスというのはちゃんとあります。
 ウバイは規制もなく野放しのままです。きっと役人の理解を超えているんでしょう(笑)。
 
 だったら介護のマッチングサービスだってあっていいのです。
 まるで普通の「出会い系サイト」のようにマッチングさせりゃいい。
 そこでの「自己責任」というのだって、いつでも当然のことです、役人は責任なんか取ってはくれません。ごく当たり前のことです。
 
 最近はウバイの連中は本部にピンハネされないよう個別に依頼と請負をしている人たちがいるようです。
 ウバイのロゴを剥がしたカバンで個別に連絡を取り合っているのを見かけます。
 何度も依頼を受けて慣れた、何度も付き合ったような顧客と個人的に連絡を取り合い、本部への手数料支払いをスキップして宅配サービスのやりとりしているようです。
 そんなのはごく当たり前のこと。
 大間抜けもいいところです。インチキなアプリに依存して奴隷労働に甘んじる必要などどこにもないのです。
 
 気の利いた連中はそういうことをすでにやっている。
 結局、それは「交換」ということです。
 

 
 私たちは貨幣を媒介とした交換経済の下で生きています。
 欲しいものにカネを払い仕事をしてカネを得ます。その得たカネはまた誰かが代わりにやってくれることに使っています。
 そこに規制だの資格だの、こんがらがった制度設計を持ち込む理由はまるでありません。
 
 しかも「交換経済」といっても、何にでも値段がつくという意味でもない。
 カネはあくまで媒介するものだからです。その目的は交換ということに尽きる。
 同じ共同体ならお互いに代わりができるという程度の原理でしかないのです。
 だから、国が違えば通貨が違うのです。
 普通はそのままでは他国の通貨は通用しません。
 生産力やサービスの交換こそが目的なのであって、その媒介する貨幣や通貨は結果論に過ぎません。
 
 だから家族の世話、介護だって他人と単純に交換できるのではないか。
 他の見ず知らずの誰かとサービスの交換ができるはずなのです。
 アタシだって破れた唐紙や障子の張り直しを手馴れた老人がしてくれるというなら毎週の買出しぐらいはしてやれる。それも単なるガキの使いのようなネットスーパーでもなく、安いものを探し、好みに合わせ、このぐらいなら欲しいだろうというのを見繕ってやれるでしょう。

 ネットスーパーなんて注文をただ名前の通りに届けるだけです。値段も特売も見ないしこちらの好みへの配慮なんかしてくれません。ロボットでもできる。ヘタをしたら野菜の色だって見てくれない。カタログ販売は現物と違うことがある、というわけです。
 あるいはほつれた服のつくろいをしてくれるというなら、安いスーパーに行ってミネラルウォーターの運搬でもやってあげられる人だっているでしょう。
 
 もし、そういう交換を受ける側に、もし遠慮や貨幣のやり取りでなければ気が済まない理由があるとしたら、それは自らのやましさ故ではないのか。
 人を尊重できない自身の性根、これまでの人生ゆえに他人が信じられないというだけではないのか。
 
 ならば老いてしまえばただのゴミです(笑)。
 
 
 交換して得られるものがあるとすればそれはお互いの気持ちです。
 人を尊重して気遣い人の笑顔を喜ぶ。
 それが分からないのであればゴミ同然の人間ではないか。
 
 誰か見知らぬ他人の人生に触れられる機会というのは幸運な出逢いです。
 我々は独りではなく、共同体に暮らす仲間がいると分かる。

 無責任に選挙のたびに贔屓筋の勝利にほくそ笑み、何も考えない老人連中がただお祭り騒ぎに喝采しています。行政や議会議員、その私物化は地方自治どころか岸田とその一族が平然とやっているのですが彼らを担ぎ、それが共同体だと勘違いしてオダをあげている。「オラが村」と言う白々しさ。
 そんな白々しさ虚しさが分からなければゴミです。
 
 自分がゴミのような老人になってしまわぬよう、せいぜい介護の交換をちょっと夢想してみるといいのです。
 そうすれば幸福な最後が迎えられるはずです。
 
 
 
 おそまつ

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