グローバリストは経済合理性から人々の目を逸らす

有意義な議論とは

 ひとつ考えてみてください。
 例えば、討論や議論。そういうものをパブリックなところでやるとしましょう。
 テレビの対談とか講演、なんなら雑誌の対談記事でもいい。
 
 何かの問題やテーマについて討論をするとします。
 まずその議論をすなら、それは必ず一対一でなければなりません。

 集団でやってしまうと集団心理が働いてしまいます。
 群れとしての議論になると中味がなくなります。
 猿山の群れの中で自然とリーダーが決まったりするように、議論にそんな力学が働いてしまうのです。議論の方向性が集団心理で流されてしまいます。
 すまわち理知的ではなくなります。

 


 たいていはグループに分かれてしまうものです。そこでは目立とうとしたり功なり名を上げようとする機制が働く。そんな心理が働きます。
 そうして議論自体に対する姿勢がおかしなことになってゆきます。
 目立つ極論を主張することが目的化されてしまいます。
 挙句には議論のテーマから外れたことまで議論するようになります。
 討論は混乱するばかり、見ている方はかく乱されるばかりで実のあるものなど期待しようもありません。

 
 タレント風情が騒ぐばかりの番組、ハシャいだり大袈裟に誇張する、そんなことに意味を見出せる人など誰もいないでしょう。
 いたらよっぽどお目出度い人です(笑)。
 
 また、大勢で討論するからといって、そのテーマや議論している内容が深堀りされるわけでもありません。
 よく、こういうのを多角的な視点で話せる、だから有意義である、などと、そんな言い方がされたりもしますがあり得ないことです。
 むしろ逆です。議論はひどく単純化してゆくものです。
 
 似たような考え方の人同士がくっつこうとし、細かな見解の相違を妥協してひとつの同じような主張にまとめようとするからです。総論賛成、各論反対というやつです。
 意味はありません。
 


 反対の主張をする側も同じことをやります。
 言ってみればただの勢力争いになります。
 
 そうすると議論を細部まで深めることはできません。結局は馬鹿馬鹿しいような屁理屈の応酬、言い争いで終わってしまいます。
 そこにはもはや議論に公正に向き合おうとする姿勢はなくなってゆきます。結局は「いいか悪いか」という単純な話になってしまいます。
 子供の言い合いのような話になってしまう。
 
 すなわちそれは相対論ということです。身も蓋もない。
 みなが大枠の主張の正当性を取り繕う、そんななポーズになりがちです。そうなれば結局は相対的な議論だけで終わってしまうのです。
 善か悪か、それだけです。
 
 しかしそんなものは現実世界からすれば知ったことではありません。
 現実というものはそうはいきません。様々な条件があり制約があって現実があります。
 相対論や二元論にしても本質的な議論となればよいですが、多数意見を無理矢理にまとめてしまえば上辺だけのものになってしまうということです。

実のある公正な議論を成立させるには


 そもそも悪だ善だとジャッジすることが議論をすることの目的ではないはずです。

 必要なのは対策、いったい我々は何をすべきか、考えるべきか、というところです。
 あるいは何を肝に銘じておくべきか、どういう心構えでいるべきなのか。
 
 すなわちそれは解決策であり、我々の決断や選択につながる議論ということになります。
 それは議論に対する真摯な態度、議論の公正さということです。
 乱暴な理屈が通ってしまったりすることがなく、合理的な論理もなく主張され続けたりすることがないようにするということです。
 だから、何かを導き出そうと有意義な議論や討論をしようというのであれば一対一でやることが基本です。
 
 しかし嘘をつこうとする人々は一対一の議論などは決してしようとはしません。
 群れて集団化しムードを作り出し、曖昧なまま二元論に持ち込もうとします。
 
 ワールドエコノミックフォーラム、通称ダボス会議ではよくこういう議論が行われています。わざわざ薄っぺらな二者択一のムードに持ち込もうとする。
 今の世界はそうした連中に振り回されています。
 


 もし実のある討論をしようとすればどうすべきでしょうか。
 その場合、その両者が同じぐらいのカネを貰ってないと議論は成り立ちません。ここは重要なところです。
 つまり両者の「格」が同等かどうか、ということです。
 それで始めて公正で正々堂々とした議論のぶつかり合いが期待できる。
 しかし同等の立場に人を揃えて議論させることはとても難しいのです。
 
 例えばテレビだとしたらどうでしょう。
 どちらが有名かどうか、ハタ目で見れば分かってしまうかも知れませんが、メディアは人気商売です。あまりアテにはなりません。顔をあちこちで晒して有名だというだけで商品価値があるとされてしまうのはマスメディアの悪弊です。
 しかし議論となると違うのです。
 目立てばいいということではありません。中味と理屈というものが必要になります。
 
 今の西側世界にはそうした中味はありません。
 NATOにしても米国にしても、まるで議論に対しての公正な態度がありません。
 彼らの議論には公正さがなく、ポジショントークばかりです。すなわち正当性がないのです。
 
 ともかく、そういう有意義な議論ができるためにはお互いが対等の立場で議論できる土俵がないといけないということになります。
 では、そこで公正な議論、まともな議論、実のある議論を成立させるにはどうしたらいいのでしょうか。
 
  結局はカネということです。これに尽きます。

ポジショントークを許すな

 

 片方が大いにカネを貰っていてその主張するところによって稼いでいて、こっちはロクに貰ってないのではそもそも議論なんて成り立たないものです。
 同じ条件にしないといけません。
 金銭的な利益、つまりカネが議論の公正さの邪魔にならないようにしないといけません。
 「対等の立場で公正な議論をさせる」、本質はそういうことです。
 
 そもそもワールドエコノミックフォーラムにはその点で嘘があります。彼らに世界の富、カネが偏在しているからです。
 2024年の米大統領選挙はどうなるでしょうか。果たしてそうした公正な討論、論争ができるのか、どうか。
 
 
 例えばテレビ討論の出演者にカネを払うならその金額は同等でないといけません。
 でないと客観的な議論なんか出来ようもないことは誰にも分かるでしょう。
 目に見えるカタチでなくとも、あるいは出演料以外の余禄ということでも、とにかくカネにからむことは同等にしておかないといけないのです。

 
 結局、そういうことができているかどうか、逆にそこに注意して見ていればいいということです。
 その議論がまともな議論としての値打ちがあるかどうか、それを判別することさえできるのです。
 
 まず、片方だけがカネをどっかから引っ張って貰っているとします。
 そうするとその人はその利益を守ろうとします。当面の利益のために人間はポジショントークをしてしまうものです。
 つまり言論の場が自分の立場を正当化するために利用されることになります。ダボス会議でやっていることがまさにそれです(笑)。
 地球環境問題、食糧問題、人口問題、LGBT、ウク、ワク、みなそうです。これらはみなダボス会議から出てきたものでした。これらは何かしら彼らの利益と立場に結び付いています。
 
 そうするとその主張が真実かどうかなど判別できません。
 その主張は信念から来たものなのか、それさえ分からなります。
 もちろん人間には信念が必要ですが、ポジショントークのためにそれさえも分からなくなってきます。
 彼らがそのことを本気で信じているかどうかすら分かりません。もはや真実性とは何の関係もなくなります。
 
 自分が引っ張れるカネを動機として議論を展開しているだけなのです。
 やがて本人が考えてもいないことまで主張し始め、議論は首尾一貫せず人々は振り回されるばかり、結局は不毛な議論となってしまいます。なぜウクの停戦の議論はまるでタブーのようにされているのか、そこです(笑)。 
 
 反対に、「貰ってない」方というのは自分も相手と同様にカネを貰おうとするものです。
 そのためにおもねったような議論をしようとしたりもする。徒に同調しようとしたりもします。
 あるいは相手の立場を横取りしようとしてくる場合というのもあります。
 そのためにまるで言いがかりのような屁理屈や揚げ足取り、そんな議論をふっかける可能性もあります。
 
 相手を言い負かせれば相手に代わってカネを貰えるかも知れない、というわけです。

経済合理性と心理学、公正な議論は難しい

 

 ことはごく簡単な心理学です。
 ところが、こういう心理学と経済合理性ということはよく混同されます。
 わざとなのか、意図的なのか、どうにも混同されてるところがある。
 
 そもそも人間というものには議論や討論というものに公正さを期待するという性質があるものです。
 しかしそれは経済合理性とは違うものです。
 
 それは、我々人間が会話によって意思を通じ合わせ情報を共有しようとする、言葉を話す動物だからです。
 そうである以上、意義のあるコミュニケーションとなることは常に私たちにとっての理想となっています。
 だから誰しも議論が公正に進められ有意義な結論が出ることを期待してしまうのです。
 ただ、これは人間の経済合理性とは違うものなのです。

 

 もちろん、そのような公正な議論は公共の利益となります。
 人間集団の利益に寄与し、人類の財産となります。単なる口論ではないからです。
 こうした期待が歴史的に発展して今に至ったものが民主主義や代議制、あるい報道の自由ということになるわけですが、果たして現在の私たちのこの世界はどうなっているのでしょうか。
 
 実は公正な議論を実現させるのはとても難しいものなのです。
 
 結局、今の時代、最も公正な議論とは結局は私たちの自問自答、もはや私たちのアタマの中にしかないのではないか、どうか。
 自分で考えることにしか議論の公正さなど求めようがないのではないか。

 

グローバリストは考えることを人々から奪う

 

 ダボス会議の連中が、あたかも人々から考えることを奪おうとするかのようなキャンペーンを張っているのはそういう理由です。
 彼らは人々から考える権利を奪おうとします。
 グローバリストと呼ばれる彼らは人類のエリートになろうとしているからです。
 
 公正でない議論を押し付け、いつも常に結論ありきです。そのために彼らは人から考えることを奪おうとします。
 こういうことは世界のあらゆるところに蔓延している病理です。
 
 我が国でも、ちょっとした地震が起きると放送局が騒ぎ立てます。テレビなどで何度も何度も、「つまづくな」「落下物に注意しろ」「火の元を消せ」などとやる。
 聞いている人々は次第に何も自分では考えられなくなります。自分の置かれた状況さえ考えなくなるのです。
 なにしろ「言われ尽くされている」と、そう思ってしまうからです。
 
 そうして人々は考えるチカラを奪われるのです。自分の置かれた状況は一般化されてしまい、言われたことしかできなくなります。自分で判断ができなくなる。


 挙句には津波が来ることにさえ気が回らなくなる。
 

 「公正でない議論」ということ考えれば、他にも「ディベート」なんて言葉があります。
 こういう仕掛けも人から考えることを奪います。議論を意味のないものにさせるものです。
 
 ディベートの不毛さったらありません。その馬鹿馬鹿しさはあまりに明らかです。
 声が大きな主張が優勢になる、そんな幼稚なレベルから始まって、巧妙な理屈を述べられた方の主張が通る、などということがしばしば起きます。
 これは本末転倒なことです。本来の議論に対する公正な姿勢からはほど遠いものになっているからです。
 
 アメリカ人はこうした訓練を高等教育で受けたりしていますが、実に哀れなことです。馬鹿な理屈しか成り立たなくなるような教育をわざわざ受けているのですから。
 結果、彼らアメリカ人の論理は驚くほど低劣だったりします。それはディベートのようなゲームに慣らされてしまっているためでしょう。アメリカではディベートの上手な弁護士によって明らかな犯罪が無罪になってしまったりします。
 社会関係がゲームのようになり、言論のトリックが上手な人の主張が通ってしまうというわけです。
 
 オバマの演説などはまさにそれでした。空虚で何もなくそして欺瞞ばかりでした。
 彼はその一方で裏で今のウク戦争のお膳立てをしていたと言われています。
 
 本質ではなく論理の体裁、議論にはレトリックだけ、主張の中味はまるで彫琢されないままです。
 だからまるで手品のようにして人心を操り、アメリカでは裁判まで主導することができます。
 今のトランプを攻撃し続ける屁理屈、ウク支援に凝り固まった西側政治、そのロシアを悪とする包囲網の隠された邪悪な覇権主義、民主主義を振りかざす白々しさ。
 そしてこれまで米国が犯してきた戦争の挑発と紛争を作り出してきた大罪の数々など、矛盾を挙げればキリがありません。しかしそれは全く議論されることはありません。
 
 まさにディベートのレトリックです。
 振り返れば歴史的にも米国のやり方は常にレトリックでしかありませんでした。
 
 しかし我々には明らかな欺瞞でもそれが米国内ではまかり通ってしまうのです。アメリカ人は馬鹿しかいないのでしょうかw。
 彼らは考えることを奪われてしまったとしか思えません。
 それが幼稚でずさんな謀略の数々、世界中で紛争を作り出してきた米国帝国主義という結果です。

 
 
 幸いにして我が国の司法制度はこうしたディベートのようなやり方はとってはいません。
 それはそれで法が及び腰になりがちに陥り官僚的で責任逃れになりやすい、そういう別な問題はあるのですがそれはまた別な話です。それはまた別の機会に(笑)。


米国の心理学実験、公正を求める人間は立証できたか

 

 さて、こういう人間が求める「公正さ」という本質についてはある心理学実験が裏づけとなると言われています。
 単にそれは実験に過ぎないのですがこんな話です。
 
「ある人が千円もらえることになった。
 ただし相手の人にいくらか渡してその人がカネを貰ってくれないとその権利は消滅する。
 いくら渡すかはいくらでもいい。
 両者の合意があればいい。
 相手にいくらか、一円でも五百円でも、もし受け取ってもらえたらその人は千円もらえる。」 こんな話です。
 
 どうでしょう(笑)。
 これはアメリカでよく行われた心理学研究とされ、何度も色んな場所でこの心理実験をやってみたと言われます。
 
 いったいどうなのでしょうか。

 これが心理実験になるかすらアタシには疑問です。理屈が成り立たないからです。
 経済的な取引であるものが心理的な傾向に摩り替わっているからです。
 そしてこの実験を通じ、人間というもののどんな習性を仮説できたというのも合理的な理屈がありません。
 いったいこんな実験で何が分かるというのでしょうか。
 
 「心理学」というのはこういう怪しい話が実に多いものです。「落語」程度の学問だと思っていた方がよいぐらいです。
 
 まあ、それはともかくとして(笑)。
 自分ならどうするでしょうか。
 千円の権利を得て貰うために人にいくらあげようか、その側を考えるのではありません。反対です。
 まず分け前を貰う側に立って考えてみたらいいのです。
 そうでなくてはなりません。何しろ相手がいくらかでもカネを貰ってくれなければその権利は消滅するのです。
 
 この心理学実験は渡す方に焦点が当てられていますが論理矛盾があるのです。
 
 ともかく、この実験の結果は平均して「450円を貰うことで納得する。」という結果になったと言われています。
 平均して450円を人にあげて自分は千円を獲得する、そんな結果になっているのだそうです。
 それでご本人は千円の権利を得られます。
 つまりその人は差額の550円を貰うというわけです。
 それがこの取引の「相場」ということになっているのですが、どうでしょうかw。

 アホです(笑)。
 
 ただの結果の「平均」に過ぎないのです。
 はっきり言ってこんな結論はマヤカシでしかありません(笑)。
 本来は「だから何だ?、何も説明できてないではないか。」そんな話でしかありません。

 最大のペテンは結論ありきというところで、理由を引っ張るためにコジツケようとしているところです。心理学なんてものはこういうインチキがあまりに多い。

 心理学実験としてこれまで何度もインチキやヤラセが行われてきました。そうしてまことしやかな心理学の法則、耳障りよく何らかの心理機制のようなものが人間にはあると喧伝されてきたのです。
 
 主にそれは米国の大学でやられてきたものです。
 しかしそれはまさにアメリカ的な発想なのです。
 
 実験だとしながら実は筋書きがあったり役者が言い含められたことを演じて誘導していたものに過ぎなかったり。トリックが暴露されてしまいスキャンダル事件になったものも数多いものです。
 そこには何の証拠、実証などありませんでした。
 
 アメリカ人の議論は公正さを追求してはいません。
 考えることは人々から奪われています。だからこういうやり方をしてしまうのです。
 
 この心理学実験は自作自演に過ぎませんでした。それをさも法則性を見つけたかのように発表したのです。
 
 いわく、「人間には公正さを求める本質的な欲求がある」、と。

米国が偽旗作戦をする

 

 こういうことは今のウク、ロシアへの執拗な攻撃、白々しくロシアが悪で西側が善だとするような主張、そういう一連の手口を連想させずにはおきません。
 そのやり方、レトリックが非常によく似ているからです。
 
 既成事実を作って言い訳にするという「偽旗作戦」を他ならぬ西側がやっています。
 西側は工作をしてロシアがやったと主張します。ロシアが反撃や非難してくればそのことを逆手に取ります。
 そうして言うのです。「やはりロシアがやったのだ。」と。「ほら見てみろ、反撃しているではないか。」と。
 
 ロシアからドイツへのガスのパイプライン、ノードストロームを爆破したのはアメリカでした。しかしこれを西側はロシアの自作自演と言っています。モスクワへのドローン攻撃すら米政府は「ロシアの自作自演の疑い」などと言ったのです。
 
 
 ブチャの虐殺は明白な嘘でした。
 あれはゼレンスキーたちが見せしめにロシアに融和的な自国の市民を裏切り者と殺害して放置したものでした。衛星画像とされたものはイラク侵攻の時のように加工され、太陽からの影の長さの解析で嘘だったことが判明しています。日付が違うのです。
 ロシア軍が撤退した後に起きた虐殺でした。
 だいたい、ブチャの虐殺があった頃、ブチャの市長はロシア軍が撤収したと喜んで街中を回っていたのです。放置された死体については言及などしていません。

 


 しかし、西側はこのブチャの虐殺をロシアのせいにしています。ひたすら言い張るばかりでした。

 挙句に岸田首相をそのブチャ虐殺の墓地に参らせ、そのタイミングで西側はこれを報道したAP通信とニューヨークタイムズにピューリツア賞を与えました。
 真っ赤な嘘を「真実である」と通し、デッち上げたのです。
 まことしやかに状況を固めて。
 
 自分たちでやっておいて白々しく嘘をつく。
 いわく、それは「実証された法則性に基づくことだ」と言うのです。だからロシアがやった確証があると言い立るのです。
 心理学実験のペテンと同じです。
 
 米英は「ロシアがよくやる手だ。」とします。「だからロシアがやったのだ。」という、そんなレトリックです。
 ウク以降、あまりにもよく聞かれる話です。
 あたかもロシアのやり方にはまるで法則性があるとし、だから故に真実であるとする理屈です。
 「ESG投資」のパフォーマンスが疑われ、グローバリスト側の金融グループは似たような主張をしています。「ESGのスコアが改善された企業はパフォーマンスが高い。」と。
 実際にESGのスコアのせいでリターンが高くなったかは分かりません。勝手にそう結びつけているだけです。子供でも分かる嘘です。
 
 実際、米国は口癖のように言っています「ロシアは『偽旗作戦』をよくやる。ロシアの常套手段である。だから今回もロシアの自作自演である。」と。
 これは自分たちがやったことをスリ替え誤魔化すいつもの西側の手でしかありません。
 
 先の心理実験と同じやり方なのです。
 それが偽旗作戦の源流なのではないのかす。
 
 主にアメリカで主張されるお粗末な主張です。実にアメリカ的なのです。これは格好のモデルになるかも知れません。
 

心理学実験のトリック、平均値の嘘

 

 話を戻せば、だいたい心理学実験で何度もやって平均値が出たとして、それが何だというのでしょうかw。
 この実験で言えばそれで「人間はこの条件ならたいてい、いくらを人に渡すものだ。」などという法則になるでしょうか。
 
 
 そうして、ここから「人間は議論にしても何にしても公正さを追求する本質がある」なんて心理的な機制を導き出すことができるでしょうか。
 だいたいこれは「平均値」なのです(笑)。
 
 こんなことで「人間心理の法則性」などと言うのはアタオカとしか言いようがありません(笑)。
 
 この実験の結果から「人間は公正さを求めるものである。」そんな傾向がある、その実証であるということになっています。
 果たして本当にそうなのでしょうか。
 人間はカネ払いの差や立場の違いがあっても公正に議論というものに向き合えるものなのでしょうか。いえ、それはありません。
 人間には経済合理性というものがあるからです。
 
 だいたい平均値です。そんなものを引き合いに出して「公正さの心理」なるものの一般化ができるものではありません。いったい平均値の意味が分かっているのか(笑)。
 
 
 そうして、いわく、「人間は公正に成果を分配しようとするものだ」、と結論付けるのですが全くの嘘です。
 人々はこうしたレトリックによって考えることを奪われます。
 「人間には公正さを追求するココロがある」、なーんてプロパガンダによって考えることを奪われる。
 心理のメカニズムを明かそうというのであればそれは平均値では困ります。一般法則でなければならないわけです。
 
 ところがこういう心理学のトリックはそうした一般法則を偽装するのですww。
 

 そうして結局、この話はひとつの人間の本性に法則じみたものが導き出せるのだとしているのです。

 いわく、
 
「人間はだいたい半分に分ける傾向がある。公正なことを望むものだ。千円もらえるんだから大体はそれを半分にするものだ。権利を貰った人はその権利の分があるのだからせいぜいちょっとだけ多めにもらえて良しとしている。だから半分よりちょっと多い550円。心理学的にそうしたことが認められるのだ。」
 と。
 
 このいかがわしいこと、胡散臭いこと。笑ってしまいます。
 
 繰り返しますがこの論拠としていることは実験結果による平均値でしかありません(笑)。
 平均からは全体の分散しか分かりません。傾向は分からない。
 
 すなわち、必然的な法則、心理と結果の因果性を解明することにはまるで役立ちません。
 嘘なのです。
 

経済合理性、値段は需給で決まる

 

 しかも、考えてみればこれは「半分よりちょっと大目」というところ、その部分がなぜか踏み込まれて論じられることなく見過ごしにされています。
 
 つまり50円の差額ということです。
 それが公正さの値段ということでしょうか?
 
 これが千円もらえる権利につけられた値段ということになるわけです。
 それなら割合として一万円の権利だったとすれば分け前は5500円になるのでしょうか。
 ごく感覚的に考えてもそれはないでしょうw。
 
 千円の権利が50円。もっと高額になったとすればそれは増えるかもしれません。
 こういうインチキな法則性を流布する連中というのはカーブを描くような仮説が苦手です(笑)。アタマが悪いw。
 直線的、いつも嘘つきは線形的な理屈を展開しようとします。
 彼らはアタマが悪いのですw。
 
 この実験の場合で言えば、相手は4500円より少なくても納得するかも知れません。
 じゃあ権利者が6千円、すると残りは4千円。
 いや、3千円円でも納得するかも知れません。450円に比べればずっと満足できる金額ではないか。
 
 
 結局、「需給が決める」ということです。
 経済原則です。
 
 ならば「人間が公正さを求めること」とは何の関係もないということになります。
 価格の均衡は自然に収斂してゆくのです。
 

 さて、アタシならどうするか考えてみます。
 自分のこととして考えてみましょう。
 
 アタシならそのカネが千円だというなら尚更です、半分程度の金額では決して妥協はしません。
 相手が貰えるという千円、それは空から降ってきたようなものです。相手はそれが欲しくなっているはずです。こちらにはそれが分かっています。
 しかしその権利はアタシのものじゃない。それなら「取引」ということになります。
 
 その取引ではアタシにビタ一文にならなくて「ダメもと」なのです。まるで腹は痛みません。もともとそんなチャンスはアタシにはなかったんだから。
 しかし相手は条件を満たせば貰える権利を得たのだと言います。
 その人は労せずしてそのカネが欲しいわけです。
 だったら900円、800円ではどうか、それがアタシの取り分です。
 アタシはできるだけもらう権利があると考えるでしょう。アタシはそう主張します。

 
 逆説的ですが、それを言うことはアタシの権利です(笑)。
 相手には千円を貰える権利が発生しています。その与えられた条件によってアタシにはその命運を左右できる権利が発生しているというわけです。
 アタシと千円の権利者、いったいどちらが優越しているのでしょうか。
 
 少なくともその権利を得た人よりもアタシが多くもらうことができるとアタシは思います。
 だってアタシが貰ってやらねばその人には一銭も手に入らないのですから(笑)。
 
 閑話休題、「投げ銭」。
 なお、もちろんこの実験は、相手が千円貰える権利が発生したことと、それにありつけるためにはアタシがいくらかを受け取らねばならない、そんな条件があることをアタシが知っていないと成立しません。
 
 その中味をアタシが知らなかったらあげる方は10円だっていいと思うでしょう。
 賽銭みたいなものです。
 
 最近のネットでは「投げ銭」というのが流行っていると聞きます。
 実に妙な話に思えてしまいますが、実際にその投げ銭を投げている人がいるといいます。
 ですが実態はホントウはどうなのかw。
 
 本当に関係者でもなくそんなものを投げている人がいるのか、どうか。
 少なくともアタシは相手がどんな人気力士だろうと投げ銭なんて一銭もしませんがw。
 
 煽られて騙されているような気がしないでもない。
 最近は人々が考えることを奪われています。
 
 そんなのに騙される人がそれほど多いのだったらアタシもどっかにそんなボタンを作ってみようかしら(笑)。

結果を目的化すれば間違う

 

 ともかく、アタシにはもともとあぶく銭なわけです。受け取れなくてもともとです。
 だったら受け取れる限り最大化させようとするのが取引というものです。
 
 価格は需給によって決まります。公正さなど入る余地はありません。
 つまりこの話には人間が経済動物であることを度外視させようとする嘘があるのです。
 それが最大の欺瞞です。
 
 だいたい「公正な配分」なんてものは結果でしかないのです。
 それが価格均衡というもの、すなわち「見えざる手」に他なりません。
 その反対に「公正になるようにしよう。」だなんて、結果を目的化しようとするとたいていは逆に不公平が生じてしまうものなのです。
 結果を目的化してしまうことで起きる誤謬なのです。
 
 そして最近はこうしたことがあまりに多い。

 

 これは何にでも言えることです。
 世間では昨今、「ジェンダーの克服」なんて話を金科玉条のものとしています。
 それで「取締役に女性が3割登用されることが目標」なんて話になっています。
 
 こんな馬鹿なキャンペーンのために能力のある男性が冷遇され、無能な女性取締役が起用され、当該企業が競争に負けて株主が損をかぶらせられるのでしょうか。
 
 モルガンスタンレーはこの2023年にCEOの退任を決めましたが、次のCEO候補に女性がいないことが話題になっています。それがモルガンスタンレーの経営の欠陥であるとまで論じられています。
 女性に候補になるような人材がいなかっただけではないのか。なぜこんなことが話題になるのか。実に呆れたプロパガンダなのです。
 
 そのうちダイバーシティとやらでオカマを取締役に起用しろ、そんなことになるのでしょうか。
 こういうジェンダーの問題は「サスティナブル」とも関係があることとされていますが、どうだかw。意味不明です。
 オカマは子供を産めません。そのどこに持続可能性があるのか(笑)。

 

 所詮は結果でしかないことを目的にしようとするとおかしなことになるのです。
 それをわざわざ分かっていて、意図して誘導している連中がいます。
 グローバリスト、ダボス会議の連中もそんなことをしています。
 これはSDG、ESGにも共通するまるで同じ構図です。
 
 人間の経済合理性から目を逸らし、経済的な原則に優越させてプロパガンダを流布しています。
 結果として国際金融資本を意のままに動かし、好きなように世の中を動かそうとする、そんなことを目論んでいる連中がいるのです。
 その主張はもちろん公正な議論に基づくものでは全くありません。
 いや、そもそも何の議論もなかったのです。
 
 
 「多様性を尊重しろ」、その是非が議論されたことはありません。所与のこととして当然の前提とされてしまっています。それは地球環境にしてもLGBTにしてもそうです。
 彼らの主張の前提はいつも当たり前のこととして片付られていますが、地球が温暖化している科学的証拠はありません。南極の氷は厚くなっているという調査結果さえあります。すべてがペテンです。
 
 ならばもっと「当たり前のこと」があります。
 「グローバリストたちは世界の金融資本を動かしている。彼らは経済合理性によって自分たちの利益のために動いている。」という事実です。
 彼らはウクに兵器を送って正義を通そうとしているわけでもありませんし、地球環境に配慮した聖人君子でもありません。差別なくLGBTを扱おうという人類の友愛に満ちた連中でもない。
 
 人間の経済合理性は否定できません。それこそ古来から論じられてきたことです。
 すなわち、すべてこれらはグローバリストたちのポジショントークなのです。
 

結び、すべてが経済性を無視させようとするプロパガンダ

 

 先の心理学実験をよくよく見れば、「経済動物である前に人間は公正さを求める動物である。」なんてプロパガンダが潜んでいます。
 
 それはとてもキリスト教的であり、とても怪しく教条的です。
 
 地球環境問題も、LGBTもジェンダーも、あたかも経済合理性に優先すべきであるかのような言説です。
 こういうプロパガンダを、人類歴史上最も非道で最も人権を無視してきた殺戮国家、テロ組織も同然のアメリカの政権が一緒になって主導しているのです。
 その欺瞞にはいい加減に気が付いたほうがいい。
 
 こうして人々には公正さを要求しつつ、その一方で自分はその裏をかいて利益を得ようとしてきたのです。
 それがアメリカの政権であり、グローバリストのやり方です。
 それは卑怯者のやり方です。誰も公正さなどこれっぽっちも求めてはいない。
 
 要は人々に対し、経済的合理性よりも人間には何か普遍的で共通の価値観があるかのように喧伝し、それを優先させて人々を思い通りに動かそうとしているということです。
 すなわち、グローバリストたちのダボス会議、「西側主導の世界秩序」なるペテンに行き着いてしまうのです。
 

 しかし、まあ、話を戻せばだいたい平均値に過ぎません(笑)。
 
 半分よりちょっとだけ少ない程度なら人は納得するものだ、そんな曖昧でいい加減な心理モデルに過ぎないのです。実にいい加減なものです。突っ込めば論理など瓦解してしまいます。
 そんなことに納得してしまう間抜けな人がどれだけ世間に実際にいるかは知りませんが、こういう「人間は公平さを希求する」なんて考え方を普遍的なものとして押し付けようとし、逆に自分たちだけはその裏をかいて利益にありつこうとする連中がいるのです。
 
 彼らは自分たちが抜け駆けするために人々から経済合理性を奪おうとしているのです。
 地球環境のために石炭を燃やすな、太陽光発電をして森林を伐採せよ、と。
そのくせウクには兵器を送り続け、ロシアからのガスを拒否させたためにまたも石炭を燃やして炭酸ガスを排出させる発電をしています。それは例外的なこととして無視され るご都合主義、欺瞞。
 
 人々から考えることを奪おうとしている。
 今の世界情勢からはそんな意図が見えるのです。
 
 もちろん公平さと公正さはまるで別なものです。
 これを混同させることはできません。
 「公平」であることは平等であるという結果です。そして「公正」であることはすなわちフェアであることです。それは全く違うものです。

  しかし米国はフェアでありませんし、西側は公正さなど追求はしていません。
 
 しかし公平さは結果でしかありません。
 「公正さ」は人類が言葉を話し、情報を共有し動物であるがゆえについ抱いてしまいがちな理想、幻想に過ぎません。
 

おわりに

 

 きっとこんな心理学を騙った実験ではトリックを使ったり治験者を説得したりしてお望みの結論になれるよう実験を誘導していたかも知れません。
 アメリカ人のやりそうなことです(笑)。
 
 彼らはコオロギを人に無理矢理食わせようとする研究のように、どこからか補助金をもらい、こうしたトリックを行って心理法則というものをまことしやかに流布しようとしたわけです。
 こんな風に西側のやる「偽旗」がまかり通り、プロパガンダがまかり通ってきたのかも知れません。その長きにわたって。地球環境問題を主張する科学者たちはカネのためにやっているのです。
 
 それにしても、まあ、アタシがそんな状況で堂々と交渉なんかしたら、どうなるでしょうか(笑)。
 「世の中の公平さ」について思い込まされたような連中から睨まれてしまうことでしょう。
 それこそ「人間は経済合理性より公正さを求めるものだ。」なんて、洗脳されているような連中に逆切れされて頃されてしまうのがオチでしょう(笑)。
 
 ちゃんと戦うための武器は用意しておくべきです(笑)。ロシアのように。

 

 今は分断された世界に私たちはいると言われます。それは米国主導の西側の覇権主義が原因です。
 しかし世界はアメリカ主導の秩序をもはや信じられなくなっています。
 油断していれば寝首をかかれるのです、ご都合主義によって足をすくわれてしまいます。
 
 何事も論理性が大事です。それは公正な議論によって導き出されます。
 少なくとも我が身、自分自身の中ではそれができます。それが「自分で考える」ということです。
 
 人間の経済的な行動原理から切り離された公正な議論などありようもないのです。
 西側のキリスト教的なプロパガンダを信じ込んだからといって、有意義で公正な議論ができるわけでもありません。そのキリスト教会は子供をレイプし虐待していました。カナダでは先住民を虐殺していたのです。信頼に足りるものではありません。
 
 ダボス会議には嘘しかない。
 
 
おそまつ
 

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