医療の現場ではまだ電子カルテが苦手だというお医者さんがいる。
若い医者はともかく、まだ電子カルテの扱い、操作ができないとコボす医者は多い。
若い看護婦、看護士なんかはすぐに適応してしまうので、若い看護婦からグチやらからかわれたりして、馬鹿にされてしまう。
そんな彼らには「悔しいが電子カルテはストレス」なんだとか。
患者を前にしても、どこだっけなんてスタイラスペンをウロウロと迷わせている古参の先生。
考えてみれば旧来のカルテは医者にとっては誤魔化しの最たるものだった。
もう少し易しく言えば医者個人にとっては守るべき砦のようなものだった。
なんだってあんな読めないもの、誰にも読めないようなドイツ語を使った字で作ったかといえば、患者との信頼関係もあるだろうし、患者に知られたくないものがあるという前提があったから。
とりわけ医療過誤なんかとの関係も大きかったかも知れない。
自分だけにわかるような暗号にしとけば後で色々と突っ込まれなくて済むというわけだ。患者に説明するのにも自分だけしか説明ができないというわけ。
電子カルテのせいでそういうことができなくなった。誰でも読めるしチェックできる。
しかしその代わり、忙しい医師への負担は減るはずだった。
他の医師に意見を聞く、セカンドオピニオンなんて話すら出てきた。
今の時代、なんでも透明性が求められるようになってゆく。必然的な潮流だ。
これまで疎かに過ぎただけのこと。
透明性が高ければ、結果だけを追求し、意味のあることだけをやっていればよいことになる。医師は余計なことをしなくて済むようになる。
「患者の不安を解消してやる」なんて、カウンセリングの人間にやらせればいいだけの話だ。
患者の行き場のない愁訴やお喋りに医師が付き合う必要はない。
人だって足りないから、別な医者へ送るのだって読めないカルテのままでは困る。
そのための電子カルテなのだが、どうしても考え方の転換ができない人、適応できない人が出てしまう。
別にパソコンが使えないわけじゃない。
機械が苦手というわけじゃない。
モデルチェンジした新しい医療機械だってちゃんと使えたりする。
ではなんで電子カルテについていけない医者がいるのか。
確かに病院ごとにフォーマットが決まっていないことはあるようだ。せっかく慣れても別な病院では全く別のものだったりする。
しかしそれは問題の本質じゃないだろう。
これまでの仕事のやり方を変える考え方の転換ができないから電子カルテにどうしてもとまどってしまうのだ。
医療サービスの提供の仕方がこれまでと変わっていることが理解できてないから、適応しにくい。
本質的な変化を受け入れられていないのだ。
チェックをしておくべきところをチェックする。それは電子カルテだったら明らかだ。
これをやってないと看護士から医師にクレームがつく。
しかし医者の方はそんな欄の活用など考えてもいなかったと。
次の誰かが見るためのものという意識がどうしてもできないでいる医師がいる。そうしてとまどっている。
医療が、口頭で伝える不確かさを排して全員が確認するものという明確さになったのに、どうしても口頭でいちいち伝えるもの、自分が指示しておくものということが頭から離れない。
だから昔からチームで動いてきた看護士と比べれば医師の適応力不足は明らかだ。
看護士は「申し送り」というのを昔からやっていた。それに対し、医者の方はひとりで判定してきたから無理もない。
しかし今は違う。
医師でさえチームで動き送り送られて仕事をこなす。
それが電子カルテに象徴される変化なのだが、考え方の転換ができないとどうしてもこの流れについていけない医者というのは出てしまう。
患者の側としては医師との信頼関係が大事だと思うので、こういう電子カルテに右往左往している医師を見ると複雑な心境となってしまうというわけだ。
いわく、いい先生だけどアタマガ固い、と。
しかしもし医療過誤ともなればどうしても必要になる記録だ。
ましてや他の専門医に送られるとなれば、間違いがないように電子カルテでなければいけない。
こういう変化自体の意味を解説し、普及のために理屈とか原理、意味を広める役割の人があまり今の世の中にはいないように思う。
これを言えば「エバンジェリストの必要性」と言ったらいいのか。
そういう技術導入に関わる根本的な理由、ツボやコツ、キモのようなものを説明する人はどんな分野でも必要なのに。なぜか育成もされていないし、ほとんどいない。
なぜ電子カルテになったのかということ。
今の変化の潮流とその流れには本質的にどんな意味があるのかということ。
これを説明するには電子カルテの「便利さ」とか「確実さ」とか以外の話をすることが必要だ。
功利以外の説明をすることが必要だ。
それが「物事のキモを説明する」ということなのだ。
昔はレントゲンやMRI、スキャン画像は紙で送られた。
別な病院へ送るのはこれを患者が持っていったりした。
ずっとブラックボックスだった医療現場では看護婦がその病院にわざわざ持って行ったりした。
今は DVDやCDに焼いて患者に渡され、患者が自分で持っていく。
別な病院だからと同じ検査を繰り返すようなことはもうやらなくなった。これは患者にとってもリスクを減らす。余計な検査で被爆していてはしょうがない。
しかしまだまだレントゲンでの肺がん検診など、世の中には古くていらない部分が多く残っている。
内視鏡に抵抗し、レントゲン技師らが自らのメシの種のために圧力をかけ、患者を犠牲にするのも構わず政治活動をしている。
内視鏡に抵抗し、レントゲン技師らが自らのメシの種のために圧力をかけ、患者を犠牲にするのも構わず政治活動をしている。
レントゲン技師のやっていることはまるで組合運動のようだ。
こういうやらねばならないこと、切らねばならないことをいつまでも後回しにしていると、必ずどこかで取り返しがつかないことになる。手遅れになってしまう人がどこかで出る。
そしてその人にとっては不幸なことでも、社会全体としては誤差程度の犠牲で片付けられてしまう。
ここでわざわざワクのことを持ち出すまでもない。
犠牲になる人にとってはたまったもんではない。
だから、せいぜい人身御供ににならぬよう、我々は自分で自己防衛するしかない。
他人が世の中の変化に適応できるか待っているわけにはいかない。
患者もよく理論武装して医師とよく話をするようすべきだ。コミュニケーションをとるようひたすら食い下がるべきなのだ。
技術的なことについて突っ込むべきだ。
専門性に逃げ込ませるべきではない。もはやそんな時代ではない。電子カルテのように誰でも中身が見える時代なのだ。
患者がよく勉強していれば医師もより高い専門性を身につけるようにし、ミスにも気をつけることができる。
患者には無駄話よりも話すべきことはある。
医療知識なんてもんだって、今なら何でも目の前の箱から得られる。
インターネットだ。
いまの時代、治療は医師との共同作業だということは言える。
任せっ切りにしていればいい専門家などいないのだと知るべきなのだ。
その本質的意味は近来ますます強まっている。
ワクのことで懲りたはずだ。
しかしなぜか関与していた連中の責任追及は始まっていない。
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