「トリアージ」という言葉がある。前にも医療現場での判断ということで紹介した。
このコロナ騒動の前、奇しくもその話をしたことがあったわけだ。
こういう時代だから、マスメディアの売文屋どもが、かりそめに覚えた「トリアージ」という言葉をやたらと連呼していて滑稽極まることこのうえなかった。
そして彼らは意図をもってその議論を歪めようとする。子供ならまだしも。
トリアージというのは元は軍事用語だった。
まずは負傷した兵士には治療が必要だが、すぐに前線に送り返せる連中から治療しろ、というもの。
でないとけが人の治療だけで後方が一杯になって戦争に負けてしまう、と。
だから大きな手当てが必要な者は手当ては後回しにするしかない。
でなければ我々は皆殺しになってしまうからだ。
「治療したらすぐにまた戦場へ」
「すぐに前線に兵士を補給することを目的とした治療の優先付け」
それがトリアージの本来の意味であり議論の本質だった。
「動けないヤツは後回しだ。応急処置をして前線に送りこめ」
それがトリアージの本質だったわけだ。
しかしもし、コロナ騒ぎでトリアージという考え方を取り沙汰するのであれば、どうなるか。
同じように考えれば、まず治療すべきは医療関係者ということだ。
医療関係者を集中して治療し、回復させ、また治療のための前線に送り込むということ。
ところが、これが歪んでいつの間にか違う形で解釈され始めた。
いわく、「治療をせずに見捨てる」という解釈だ。
どうせ戦地のことなど実感などないくせに、「命に優先順位をつけるのか」などと見当違いのことを言い出しているのがいた。
そしてそのために文句をつけた。
そういういいがかりをし、秩序を混乱させることに躊躇のない連中と云うのはいる。それがマスコミだ。
こんな主張など気にすることはない。まず自分がしっかりしていればいいだけだ。今はそんな時代だ。
コロナ騒ぎに当てはめれば、トリアージとは、さしずめ「はからずも離脱させられてしまった企業戦士をまた前線に送ること。」になる。あるいは「医療関係者をすみやかに前線に復帰させること」となるだろう。
そうでなけば経済が止まり、医療が止まる。日本が止まってしまうから。
だが、実際の運用は違う方向に傾いた。
「まず老人を助けろ」そういうことになっていった。「治療を受けられないまま老人が亡くなった。」今でもそういうことをことさらに強調する連中もいる。悲劇だというわけだ。
そうして、老人を助けろ、そのために社会機能を停止させろ、ロックダウンだ、そんな話になったのではないか。
「老人を見捨てるのか」そこまでのヒステリックな言葉は見かけなかったが、しかし作り出されたムードの本質はそれだった。考えもなしにコロナに悲劇性が付け加えられポピュリズムが氾濫した。もちろん政治だ。
それは結局、老人が最大の票田でありマジョリティであるからに他ならない。
マスコミはそこに阿った。
彼ら老人こそ大事で、「まずまっ先に治療しろ」と当然のように主張されていた。トリアージはその中で言われた。優先順位は老人だというわけだった。そうして医療崩壊が心配された。そしてワクが救世主のように扱われた。検証もされないパニックに陥った人々への慰めにそれは無責任に提供された。
そしてまるでそんな無責任の罪悪感の裏返しのようにコロナは悲劇の言葉として繰り返された。
しかしそれは違った。
コロナが陽性でも、重篤化しなければ治療の必要はないはずだった。
トリアージは単なる治療の手順なのだ。
逆に言えばコロナで老人たちが考えたことは「優先順位をつける」ということではなかった。
それは「優遇」ということだ。
だから若者は出歩くな、とそんな話が横行した。
一方で、老人たちはなぜ毎日、出歩き、ほっつきまわっていたのか。
孤独暮らし、心細く寂しいものだから、ワラワラとゾンビのように現れあちこちでわざわざ人込みを作った。
今の老人はかくもみっともない。これを恥じ入る連中はいない。
こんな、コロナを利用したポジショントークが世間に氾濫しているものだから、ずっと続いてゆくと彼らも図に乗っていたのだろう。
いい加減に我慢がならなくなってくる。
コロナは高齢化の現在では若者には格好の機会だったかも知れない。老人が淘汰されるのは必然のことだ。
今後、誰が生き残って戦うのか。我が国を支えるのか。
この国が存続するするため、優先順位はつけねばならない。
この国を支える人々からまず治療すべきだ。
自分を優遇し他を捨てよ、これは実は今の老人たちが昔の若いときに言ってきたことだ。
なら今度ばかりは彼らの番になる。
助けは暫くはこないのだ。
選挙の票田と国家の存続とは関係がない。 経済を止めてまで老人を救う意味はない。
経済を回せ。
世代の断絶は続き、そして広がってゆく。
自然に、我々は見えざる手に導かれねばならない。 それが合理性だ。
ヒステリー状態を続けてもどうにもならなかった、ワクが逆に害毒を引き起こした。政府発表を信じ込みせっせとワクに群れた老人たちには先が見えていなかったのだ。
コロナとワク、こうしたヒステリーを容認することこそがポピュリズムではなかったか。
小池都知事も相変わらず政治のパフォーマンスばかりに傾いている。ポピュリズムでしかないから具体的な成果はない。ただ無駄な政治判断と独断専行だけが残る。
一方のマスコミは注文ばかりつけて邪魔ばかりだからポピュリズムは格好の反撃材料だ。本質的な議論は遠ざけられる。真相は見えないままだ。
混沌としているのは変わらない。
私の場合、先日に似たようなことがあった。
私は隣の婆さんに申し出て庭木の選定をしてやったのだった。
しかし隣の婆さんに対する親切心など私にはこれっぽっちもなかった。
無分別な庭木の伐採をたとえ隣家であってもやられれば気分が悪くなるのはこちらというだけだ。私は人間より長生きしているような樹木がだらしなくブッタ切られるのが許せない。そんな無分別な人間の傲慢が許せない。
小池都知事が今、そんなことをしているそうだ。
ともかく、これが正直なところ。
だから剪定にまごついている様子だったのでちょっと声をかけて手を貸してやった。
そうすれば面倒になっていい加減にされてしまうようなことはないと思ったからだ。
私に手伝ってもらって、その上に別に頼むこともないだろう。
人の家の庭木でも目には入る。癒しにはなる。
私は利己的な理由で善意を買って出た。
だからちゃんと新芽は残しておいてやった。
優先順位としてはウチの庭木よりも隣家が優先された。
致命的なことにさせないようすぐに手を打つ必要があったというだけだ。
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