憲法記念日という休日もあります。
憲法をきちんと改正したら祝うことにしたいものです。
さて、憲法学者が憲法九条の改正に反対して時々意見を出しています。
新聞広告やらメディアやらで見たこともあるかと思います。
これはどういう動きなのでしょうか。
本質的というか、ごく当たり前すぎる疑問についてはあまり語られていません。
それは、「憲法学者」というのはいったいどんな連中なのかということです。
憲法に照らして法律が違憲であるかは最高裁が決めます。
法律は国会議員が作ります。
改正は国民投票で行います。
それじゃあ、この「憲法学」とやらを自称する連中は誰で何者なのか。何でふんぞり返って偉そうにし、どんな資格があって「意見だ」などと国民のものである憲法改正にクチを出してくるのか。
「憲法学名誉教授」だのと名乗っているが、そいつらの価値はいったいどこにあるのか。
どんな実績や意味のある仕事があったというのでしょう。
ちょっと考えてみてください。
実は何もない。
ぜーんぜん。(笑)何一つ憲法学者はやってこなかった。
それは彼らが自分で自ら作り上げてきた「虚構」でしかありません。
アメリカにも憲法の研究というのはあります。ビッケルという名前とか、ググれば有名な学者はいます。しかし「憲法学」なる学問なんてものはありません。
自ら独立宣言を勝ち取り、法による支配を作ったアメリカ。
日本とは違って非常に短い歴史の国が、憲法と言うものの体系を懸命に説明付けようとした努力がそこにはあります。
いわば他の国から「突っ込まれないよう」に必死にやってきたのです。
しかし、日本の憲法学者とやらはどうでしょうか。
日本の憲法には体系どころか、支離滅裂の部分があまりに多い。
日本の憲法には外国で生まれた人間は総理大臣になれないという規定すらありません。
恥ずかしいことに、途上国では法律の定めにより国民投票前の世論調査は禁じられています。しかし日本では表現の自由とやらを濫用し、堂々と嘘の世論調査、操作された内閣支持率が溢れかえっています。
このような現状に異議も批評もせず、考えることもしようとせず、改正の必要性さえ差し挟まなかった憲法学のニセ学者の言葉など念仏にもならないのです。
大学に入った人ならわかるでしょう。
その馬鹿さ加減は誰でも知っています。
憲法学などせいぜい大学の一般教養の手慰みでしかありません。
ノートをコピーして回し、学生は適当におためごかしの理屈をレポートでもしてやればよいだけのくだらぬ「教養」でしかありません。
「一般教養」、いわゆる「パン教」と呼ばれて蔑まれるクズ講義です。
連中の言葉や理屈など、もともとが大した意味のない戯言でしかありません。
憲法というものをまるで金科玉条の神聖不可侵なものとして扱い、解釈しようと理屈をこねくり回す憲法学のセンセイどもは確かにご立派な模範を示してくれています。
その「模範」とは何でしょう。
「自分らを立派に見せかけるための詐欺師のレトリック」でしかありません。
彼らの言うことはいちいち飾り立てられ、脳のない連中がハリボテのように作られ、だから何?議論の余地はあるの?と、そこはいちいち突っ込みどころが満載です。(笑)
しかし一方であのセンセイどもの権威はそんな異議申し立てを一切受け付けない。
我々学生は白けた気分でこの講義を眺めたものです。
それは「神学論争」でしかありません。
しかも近代の、人間が書いて作ったものをあれこれとイジくり回しているだけ。
まずは神聖なる価値あるものとして憲法をあがめておいて、不可侵のようにしてゆく。
その「議論をさせないようにする」ということの危険など彼らにはわかりもしないし、それに責任など取りません。
そもそも連中は法律というものの理念すらわかっていないフシがあります。
そして、これこれこうだから理想はこうなっているのだとか、解釈がどうだからと愚にもつかない理屈だけをこねくり回し続けてきたのです。
なんということはない、わざわざ憲法を担いで自分らの「巣」をそこに作ったというだけなのです。
聖書やコーランならともかく、たかだか近代の独立国の憲法がそこまで飯のタネにされてしまうとは。
いやはや恐れ入ります。
こういうエセ学者どもはあちこちで派閥をせっせと作ります。まるでシロアリです。
そして大学の中での幼稚な権力闘争に熱中し、一方ではひたすら部外者を遠ざけてきました。
そうして、その甲斐もあって、政府や行政に意見を具申し、時には憲法九条論争には教養ある知識人として参加させてもらいそれなりの権威として振舞おうとします。
だが、そもそもが彼らの能力と説の正しさ、考え方の正統性を裏付けるようなものはどこにあるというんでしょう。
どこにも見当りません。
なぜなら、それは憲法とは所詮は「紙に書かれたもの」でしかないからです。
なんなら家電の取説でも議論しておいた方がよっぽど役に立ちます。
それが名誉教授だ、なんだと全くペテンにもほどがあるというものです。
それが昔から繰り返されてきた「詐欺的アカデミズム」のやり方だったのです。
そういう学閥や派閥は幾重にも重なり輻輳して複雑なものとなり、ツテだコネだなんとか系だとかで群れます。
やがては最高裁判事の判断に影響を与えるほどまで肥大していきました。
憲法学と言う空虚な虚構の完成です。
権威主義が硬直化し、それは実害をもたらします。実務を思考停止に追いやるのです。
彼らは法律の実務家ではありません。「法学」ですらない。
それこそ弁護士でも検事でもないのがほとんど。
犯罪の現場も法廷もろくろく知らず、世界で議論すらしたこともないのが憲法の条文を振りかざして仏壇に飾り、教壇に飾ってはせっせと虚構の権威付けをしてきた。
英語の文献すら読んだことがないのがほとんど。というか、まるで連中は読めないでしょう。(笑)
ましてや憲法論争などを海外でやっている学者などひとりもいません。
ごく近年、とある国ではまだ憲法がないということで、これを作る作業が行われていました。
この作業に日本の憲法学者はまるで関与していません。日本と親交が深い国でありながら、日本が呼ばれることも参考意見を聞かれることもありませんでした。
全く役に立たないからです。
今、この連中が必死にパフォーマンスしています。憲法九条とやらを守るべきだと議論すらさせないよう国民世論に必死に圧力をかけている。
間違えちゃいけません。あれは自分たちのメシの種のためだけにやっていること。
中韓の工作、日本壊滅のための周到な世論誘導ということも一方ではあるでしょう。しかしこと憲法学者らのほとんどのそれは彼らの価値を最大限大きく見せたいからだけでしかありません。
「俺たちは偉いんだ」と言っているだけ。
歴史家でもない連中が時には「日本の憲法には歴史的意義がある」などと言ってしまう
のだからもう発狂しているとしか言えません。
いったいこいつらは何様のつもりでしょう。
ただの詐欺師です。
自分を大きく見せて専門家を気取っていただけの「解釈野郎」でしかなく「憲法評論家」でしかない。
そしてそういう虚構がバレそうな最近の世間の風潮を嗅ぎつけたことでしょう。改正が国民投票にかけかられでもすれば自分らの立場がなくなります。
その権威も報酬も、あまりに分にそぐわないもの、過ぎた評価であることがバレれば国民の全てがこの連中に疑問を持たずにはおれません。
それで抵抗しているだけに過ぎないのです。
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